2019年05月06日

破壊された世界遺産「パルミラ遺跡」その3

ベル神殿に向かいました。

神殿は、入り口となる門以外、跡形もありませんでした。
目を疑うような光景です。
破片となった柱廊や梁が破片が門の周りに散乱し、瓦礫の山を作っていました。
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神殿の周辺を警備している政府軍の兵士によると、「この一帯にはISが多数の地雷が敷設していたが、全て撤去した」とのこと。
地雷はないという言葉に勇気を得て、神殿に近づいてみました。
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数トンもある柱や梁が砕け散っています。
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周辺の列柱の一部には破壊されずに残っているものもありました。
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神殿から数十メートル離れた場所にあった小石です。
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案内のマフムード氏はによると、「色から推測して、ベル神殿の柱の小さな破片だろう」とのこと。
「破壊は一瞬だ。何もかもが、粉々になってしまった・・」


列柱道路の入口にあった凱旋門のアーチも破壊されていました。
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一部が破壊されたローマ劇場です。
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警護のために同行してくれた4人の兵士は、皆リラックスした様子で、「日本人が来るとは珍しい」と記念撮影を求めてきました。
遺跡を回っている間、マフムード氏が、兵士たちに対して、パルミラの歴史のことを熱心に説明していました。
「ここに1年駐留しているが、詳しいことは知らなかった」と感心する兵士たち。
私の方を振り返ったマフムード氏は、「再び外国人観光客をここに案内できる日はいつになるだろうね」と、寂しそうでした。



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2019年04月30日

破壊された世界遺産「パルミラ遺跡」その2

前回の続きです。

昨年9月に訪れたシリアのパルミラ。

パルミラ博物館の内部は無残な姿でした。

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壁や天井には爆発で大きな穴が開き、展示ケースのガラスは粉々に砕け、展示品は持ち去られていました。

博物館職員の話によると、この展示ケースは日本政府から寄贈されたとのことです。
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押し倒されたままの石像。
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展示品の中には、わずかですが、破壊をまぬがれたものもありました。
例えば、このモザイク画。
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人物の彫像(胸像)が展示されていた壁です。
彫像は持ち去られたそうです。
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壁の右のほうに、IS戦闘員が書いた「バーキヤ」という落書きが見えます。
「バーキヤ」とは「残留する」という意味の単語で、ISのスローガンの1つです。

ISの戦闘員は、彫像の頭部や顔の部分を執拗に破壊したようでした。
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破壊されはしたものの、持ち去られずにすんだ遺物は、館内の一角に集められていました。
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「遺物の修復と博物館の復旧にはまだまだ相当の時間がかかるよ」
博物館の職員は、そう話しておられました。


ただひとつ、学術上重要な遺物はISがパルミラに進駐する直前にダマスカスに移送されたことは救いです。
それらの遺物は、現在もダマスカス国立博物館に保管されているそうです。


博物館を出て、遺跡へ向かいました。


(次回へ続く)


posted by Backbone at 04:52| シリア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月24日

破壊された世界遺産「パルミラ遺跡」

パリのノートルダム大聖堂の尖塔が崩れ落ちる映像はあまりに衝撃的でした。
世界の多くの人たちが、大きな悲しみを共有したことだと思います。

パリのノートルダム大聖堂は、1991年、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
「長い歴史の中で生まれ、受け継がれ、将来においても重要性を持つ人類共通の宝物」である世界遺産。
世界中で広くそう認識されてるからこそ、ノートルダム大聖堂の火災のニュースに、国籍宗教を問わず、たくさんの人たちがショックを受け、再建のために多くの寄付が集まっているのでしょう。


シリアのパルミラ遺跡がユネスコの世界文化遺産に登録されたのは、ノートルダム大聖堂登録の11年前、1980年でした。

パルミラは、紀元前1世紀から紀元3世紀にかけてギリシャ・ローマの西方と東方を結ぶシルクロード交易で栄えた隊商都市です。

遺跡は、シリアの首都ダマスカスから砂漠の一本道を車で3時間ほど走ったタドムルにあります。

ずいぶん昔の話になりますが、初めてパルミラを訪れて、ローマ時代の列柱道路を目にした時の感動は今でも忘れることができません。

シリア内戦以前は、世界中から毎年15万人以上の観光客がこの遺跡を訪れていました。
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昨年9月、内戦後初めて、パルミラを訪れました。


同行してくれた観光省職員のマフムード氏は、以前旅行会社のガイドとして働いており、ダマスカスとパルミラ遺跡との間を数え切れないほど往復したそうです。
「外国人のツアー客と一緒に、何度も通った道ですね」
日本人観光客も案内したことがあり、日本語の挨拶などを今でも覚えていると話してくれました。

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内戦中の2015年5月、IS(イスラミック・ステート)がパルミラ全域を制圧。
紀元1世紀に建てられたベル神殿など、爆弾で次々に破壊していったそうです。

10年ほど前にパルミラを訪れた時には、パルミラ遺跡調査研究の第一人者であったハーレド・アスアド氏に博物館でお会いしましたが、現在は、博物館の展示品は破壊され、アスアド氏はISに捕らえられて殺害されたと聞きました。

2017年3月、政府軍はISを放逐しパルミラを再制圧しました。
現在、パルミラに至る道には、多くの検問所が政府軍によって設置されており、パルミラとその近郊一帯への入境は厳しく制限されています。
道中すれ違うのは軍用車ばかり。一般の乗用車はほとんど見かけません。


パルミラの町に到着し、まずは博物館を訪れました。
(次回に続く)



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2019年02月28日

イエス・キリストと同じ言葉を話す村「マアルーラ」

シリアの首都ダマスカスの北約60kmの山間部に、キリスト教徒が多く住む町、マアルーラがあります。
マアルーラは、イエス・キリストと同じ言葉を話す人々が暮らす村と知られています。
シリアの公用語はアラビア語ですが、ここマアルーラでは、キリストが話していたとされるアラム語が現在も話されています。

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町には複数の教会・修道院が点在しています。
そのうちの1つサルキス修道院は、4世紀頃の建設とされ、世界最古の教会の一つして知られています。
しかし、外観はどう見ても新しそうです。
地元の人に尋ねてみると、「この間の戦闘の後、修復したのです」とのことでした。

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2013年10月、アルカーイダ系の反体制武装勢力「ヌスラ戦線」がマアルーラに侵攻して制圧し、翌年4月に政府軍の反撃を受けて退却するまで、マアルーラを実効支配していました。
サルキス修道院が被害を受けましたが、近くの高級ホテル「サフィール」は完全に破壊され廃墟となりました。

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マアルーラへの道中、政府軍の検問所を何度も通りました。
戦闘中他の地域に逃れていた人々の多くは帰還しましたが、ほぼすべての住宅の壁に生々しい銃弾の跡が残っていました。

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そうした事実に思いをはせている最中、突然、近くで銃声が聞こえました。
何事だろうと思いきましたが、それは、祝祭のパレードが始まる合図でした。
訪問した日は、ちょうど「聖十字架祭」に当たっていたのです。
エルサレムでキリストの磔刑に使われたとされる十字架の破片が、4世紀に発見された故事に因んでいます。

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ダマスカス北郊の山岳地帯独特の、荒々しい調子の歌を歌いながら行進する男達。
パレードに参加した政府軍の兵士が自動小銃を空に向けて乱射すると、歓声が上がります。
修道院から出てきた修道女たちも、愉快そうにそれを眺めています。
普段は物静かなマアルーラの人々の、意外な一面を見た気がしました。



ダマスカスからマアルーラに向かう道中の真ん中あたりにも、キリスト教徒が多数を占める町サイドナヤーがあります。

この町の周辺でも戦闘が頻発したそうですが、町自体はほとんど被害を受けていないように見えました。
この町の小高い丘の上にも大きな修道院があります。

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町は今も政府軍によって厳重に警備されており、検問所の通過にかなりの時間を要しました。





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2019年02月18日

十字軍の要塞『クラック・デ・シュヴァリエ』の現在

シリアのホムス県西部、地中海まであと30kmほどの山の上に、かつての十字軍要塞『クラック・デ・シュヴァリエ』があります。
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2006年、『クラック・デ・シュヴァリエとサラディン城』として、ユネスコの世界遺産に登録されています。
(*2013年、危機遺産リストに登録)

◆クラック・デ・シュヴァリエとサラディン城(ユネスコ公式ページ)



現在残る要塞は、12世紀に聖ヨハネ騎士団が建設したもので、世界で最も保存状態の良い十字軍要塞の1つとして知られています。
パルミラ遺跡と並んで、シリアにおける有数の観光地としても有名でした。

「ここを訪れる観光客は、この場所から見えるクラック・デ・シュヴァリエが一番美しいと言っていたよ」
観光職員のマフムード氏が連れて行ってくれた場所は、政府軍と反体制武装勢力との戦闘で廃墟となったレストランでした。
内戦前は多くの観光客でにぎわっていたそうです。
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クラック・デ・シュヴァリエと周辺の村での戦闘は2年以上続き、2014年の春に政府軍に再制圧されました。

廃墟の窓からは、今も、クラック・デ・シュヴァリエのみならず周囲の山々や農村が見渡せ、素晴らしい眺めでした↓。
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そこに近所の子どもたちが「「2階に凶暴な犬達がいるから気を付けて」」とやって来ました。
ここで繰り広げられた十字軍とマムルーク朝の死闘について滔々と語っていたマフムード氏は、「どうする?逃げようか・・」と困惑模様。
しかし、当の子どもたちは平然と階段を上がっていきます。

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子どもたちが連れてきたのは2匹の子犬でした。
犬の親子が2階に住み着いているようです。


クラック・デ・シュヴァリエ周辺の村の住宅には今も銃弾の跡が残っていますが、住民の多くが帰還しているとのことでした。


ここから、クラック・デ・シュヴァリエへ向かいました。

要塞の入口です。
ここには、シリア国旗と共に、ロシアの国旗も掲げられています。
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ロシア兵の姿は見えませんでしたが、パルミラ遺跡の近くではロシア軍の装甲車を見かけました。


城塞の中は静まり返り、時が止まっているかのようです。
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誰もいないと思っていたチケット売り場の扉が開き、職員の男性がパンフレットを手に持って出てきました。
「クラック・デ・シュヴァリエにようこそ」
埃をはらって手渡してくれたそれは、10年ほど前に観光省が発行した日本語のパンフレットでした。
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内戦前には多くの日本人観光客がここを訪れていたのです。


反体制武装勢力がこの周辺を実効支配していた際、彼らの「本部」がここクラック・デ・シュヴァリエに置かれていたそうです。
「こんな立派な城塞の主になることができて、さぞ愉快だったことだろう。うらやましいな」と、管理事務所の職員は笑っていました。
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礼拝堂は、13世紀、マムルーク朝の手に落ちた後に、モスクに改修されました。
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十字軍時代のフレスコ画が一部に残っています。
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帰りに管理事務所に寄ると、女性達が黙々と、何かを洗っていました。
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近所に住むアルバイトの女性達が洗っていたのは、人骨でした。
昨年の夏、ハンガリーの調査隊が、要塞内を発掘した際に発見したものだそうです。

「私達はまだ、クラック・デ・シュヴァリエの歴史のほんの一部しか目にしていないかもしれませんね」
ダマスカスから赴任して間もない考古総局の職員の方がそう話していました。

この場所に平和な日常が戻り、発掘や歴史研究が今後進んでいくことを願います。




posted by Backbone at 14:41| シリア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする