2017年06月15日

エルサレム旧市街で出会った人々(2)

岩のドームの近くの小さな路地に暮らすパレスチナ人のサイマさん(仮名)と知り合いになる機会がありました。

彼女は、ご両親とお姉さん、妹の5人家族で、現在21歳。
エルサレム・ヘブライ大学の学生さんです。

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お姉さんのマハさん(仮名)は、アル=クドス(エルサレム)大学を卒業しました。

アル=クドス(エルサレム)大学はエルサレムにあるパレスチナの大学ですが、そこを卒業しても、イスラエル側ではいい職に就けなかったそうです。

それで、サイマさんは、ヨルダン川西岸にあるパレスチナの大学に進むことを考えました。

ヨルダン川西岸はエルサレムから45分で行ける距離です。

しかし、実際には、国境での検問があり、毎日片道2時間の通学になってしまいます。


いろいろ悩んだ挙句、サイマさんは、エルサレムにあるイスラエルの大学で勉強することを決めました。

今後、イスラエルで、イスラエル人と共生して仕事をしていきたいという覚悟の表れでもありました。

アラビア語が母語の彼女にとって、ヘブライ語での勉強は決して易しくはありません。

それでも、頑張るしかないと彼女は語ってくれました。


彼女の専攻は国際政治です。

ある時、大学の授業で、

「エルサレムで生まれ育った人は手を挙げてください」

「両親がここで生まれ育った人は?」

「祖父母がここで生まれ育った人は?」

と質問されました。

講義に出ている学生の中で、最後まで手を挙げていたのは、サイマさん一人だけでした。

その時、講義を受けていたのは、サイマさん以外全員イスラエル人。

それで、祖父母の代からエルサレムに住んでいたのは、パレスチナ人であるサイマさんだけだったのです。

それを質問した教授も、エルサレムにもともと住んでいるのはパレスチナ人であることを改めた確認したかったようです。


ご自宅を訪ねていたとき、サイマさんがダンスのレッスンに出かける時間がきてしまったため、その後はお母さまと長々と話し込んでしまいました。

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お母さまの話によると、1967年の第3次中東戦争後イスラエル統治下となった西エルサレムに暮らす人は、ヨルダンのパスポートを保持しているんだそうです。

しかしながら、ヨルダンに行ったところでヨルダン人扱いされることはありません。

また、イスラエルが発行する身分証明書を所持していたとしても、イスラエル人と同等の扱いを受けるわけではありません。

かといって、パレスチナのヨルダン川西岸に暮らせば、さらに自由のないパレスチナのパスポートになります。

ヨルダン川西岸の人達は、許可を取らないとイスラエルに入って来れません。

ガザ地区にいたってはさらに厳しく自由が制限されます。


そうしたことを考えて、母のワルダさんも、サイマさんに、エルサレム・ヘブライ大学への進学を勧めたんだそうです。



エルサレムに暮らすパレスチナ人一人一人に、それぞれ困難な状況と複雑な思いがあります。

それは、イスラエル人にとっても同じことかもしれません。

そんな中で、彼らは、進路を決めるときだけではなく、日常生活の中のいろいろな場面で、「共生」という言葉に向きあい、自らのとるべき道を慎重に選択し続けている。

そんなことをそこかしこで感じた今回のエルサレム訪問でした。


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2017年04月30日

エルサレム旧市街で出会った人々(1)

日本のニュースやテレビ番組などでもよく取り上げられるエルサレムですが、そこで暮らす普通の人々の日常が伝えられることはなかなかありません。

現地を訪れた時、そうした人々から直接話がきけるのは、とても貴重な、そしてうれしい経験です。


たとえば、パレスチナ人のAさんは、エルサレム旧市街で観光客向けのレストランを営んでいます。

彼のレストランは岩のドームの近くにあり、レストランの天井のデザインは岩になっています。

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彼には、なんと、お子さんが11人、お孫さんが27人もいるんだそうです。

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「『この土地を売るつもりはないか?』と高額の提示をされたこともあるけれど、自分は売るつもりはない。あまりの金額の大きさに売ってしまった人もいるけどね」

いろいろあるけれど、細々ながらでもここで経営を続け、お孫さんたちとの暮らしを守っていきたいと話されていました。

そして、

「イスラエル料理といってももともとはパレスチナ料理なんだよ。うちのレストランには、パレスチナ家庭料理はおいてないけど、うちまで来てくれたら、妻の手料理をごちそうするよ」

と、温かい言葉をかけて下さいました。

今回は残念ながらスケジュールが合わず、うかがえませんでしたが、次の機会には是非ともごちそうになりたいと思っています。



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2017年04月26日

杉浦千畝氏の「命のビザ」で救われた実在の人物

『杉浦千畝』の名前をご存知でしょうか?

杉浦千畝氏は、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していたのですが、そこでナチス・ドイツから逃れてきた多くの難民に「命のビザ」を発給し、彼らの命を救ったことで有名です。

2015年に唐沢寿明さん主演で映画化された『杉原千畝 スギハラチウネ』をご覧になった方も多いかもしれません。

杉浦千畝氏については、それ以前にも、何度も映像化、舞台化されました。


イスラエルのネタニヤ市郊外で、その「命のビザ」で救われた方にお会いしてきました。
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彼は当時まだ2歳で、ご両親と叔父様といっしょにヨーロッパに住んでいたそうです。

ご本人は2歳でしたので、当然、当時のことをよく覚えているわけではないのですが、お父さまから何度も何度も、どのようにして杉原千畝氏に出会い、どのようにビザを発給してもらったのかを聞かされたそうです。

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当時、日本大使館の前には、連日、日本国のビザを求めるユダヤ人が列をなしていました。

彼のお父様は入口を間違え、台所に通じる勝手口から入ってしまいました。

そこで、食事を準備していた女性に杉原千畝氏の執務室を尋ねていたところ、そこへ杉原氏がトイレから出て来て、「どのようなご用件でしょうか?」とにこやかに話しかけてくれたそうです。

杉原千畝氏は、指にタコができ、腱鞘炎になりそうなほど、毎日昼夜を問わず何百枚ものビザを手書きしていたにもかかわらず、不法侵入者にしか見えないお父様に対しても、紳士的に接してくれたことを忘れることはできないと。


その後、彼らは日本へのトランジットビザを発給してもらうことができ、家族で船に乗って、日本に行くことができました。

日本に着いた後、お父様は、鉄柵が街から消えて行くのを見て、戦争が始まることをすぐさま感じとったそうです。

しかし、彼らは、パスポートを持っていませんでした。

それで、神戸に6カ月滞在し、3回ビザを更新して、最終的に在日本ポーランド大使館でパスポートを作ってもらい、真珠湾攻撃が始まる前に、インドネシア経由でニュージランドにたどり着いたんだとか。


まさに「命のビザ」が支えた奇跡の脱出劇でした。


「杉原千畝が発給した2000人分のビザは、2000人の命を救ったのではなく、この写真に写る私の息子たちと孫たちを含め数万人の命を救ってくださったんですよ」と、
家族の写真を持って語られた彼の言葉が心に残っています。



イスラエルのネタニヤ市には、昨年、日本の斑目氏が寄贈された「プラネタンヤ(プラネタリウム・瞑想センター)」がオープンし、通りに「チウネ・スギウラ・ストリート」という名前が付けられました。

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イスラエルには、ネタニヤ以外にも、杉原千畝氏にまつわる場所が他にもあります。

30年以上以上前に亡くなった一人の日本人が、遠く離れた国と国の架け橋になっているんですね。


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