弊社が撮影コーディネートを担当したNHK-BS1『地球リアル』が下記の日程で放送される予定です。
◇NHK-BS1『地球リアル』
ドバイの倉庫から“今”が見える〜世界最大の人道支援基地〜
2017年6月29日(木) 午後6:00〜午後6:10(10分)
◇番組公式ホームページより
番組内容:中東ドバイにある巨大倉庫。60以上の国連機関やNGOが多種多様な緊急支援物資をここから発送している。世界で今、何が起きているのか。ドバイの倉庫から見えてくる!
詳細:ドバイの巨大倉庫を利用する国連人道支援物資備蓄庫(UNHRD)は900種類もの物資を扱う。そこには想像を超える意外な品も…。遺体袋、防弾仕様の自動車、防弾チョッキ、ジム用品など、さまざまな援助物資の注文が舞い込む。送り先は紛争地や政情が不安定な地域。物資を届けるのも一筋縄ではいかない。ドバイにある世界最大の人道支援基地にカメラが潜入!世界で今、何が起きているのか…。巨大倉庫から浮かび上がる!
2017年06月28日
2017年06月21日
ドバイでクルーズ(2)
前回に続いて、ドバイのクルーズをご紹介します。
こんなプチツアーもありました。

人工島パームジュメイラを海から見るツアーです。

観光客に大人気のコースで、長蛇の列となっていました。

ドバイの夕方は、クルーズタイム。
多くのクルーズ船が出航の準備をしています。

船はペルシャ湾の沖へと進み、ドバイの街の風景が徐々に遠くなっていきます。

見たかったのはこの景色です!

中央の建物がはドバイショックの最中の2009年にオープンしたアトランティスホテル。
客室1500室。
総合娯楽施設を持つことで有名です。
このホテルに泊まることを目的にドバイを訪れる人もいます。
港に戻って来た頃には、ナイトライフが始まる雰囲気になっていました。

彼女たちもサンセットクルーズへお出かけでしょうか?

いつの間にか、水タバコが準備されていました。
砂漠の国の涼しく楽しい時が始まります。

こんなプチツアーもありました。

人工島パームジュメイラを海から見るツアーです。

観光客に大人気のコースで、長蛇の列となっていました。

ドバイの夕方は、クルーズタイム。
多くのクルーズ船が出航の準備をしています。

船はペルシャ湾の沖へと進み、ドバイの街の風景が徐々に遠くなっていきます。

見たかったのはこの景色です!

中央の建物がはドバイショックの最中の2009年にオープンしたアトランティスホテル。
客室1500室。
総合娯楽施設を持つことで有名です。
このホテルに泊まることを目的にドバイを訪れる人もいます。
港に戻って来た頃には、ナイトライフが始まる雰囲気になっていました。

彼女たちもサンセットクルーズへお出かけでしょうか?

いつの間にか、水タバコが準備されていました。
砂漠の国の涼しく楽しい時が始まります。

2017年06月19日
ドバイでクルーズ(1)
ドバイのマリーナ地区。
地図で見ると、入り組んだかたちをしていますが、ドバイ政府経営のウォーターバスで40分で往復できます。

早速乗り込んでみましょう。
ウォーターバスの中はクーラーが効いていて快適です。
この地区に暮らす人が対岸のスーパーまでチョット利用、なんてこともあるようです

ドバイ政府経営の全ての交通機関に利用できるヌールカードです。
この家族連れは、対岸のレストランへ行くんだそうです。
ウォーターバスの中からはこんな景色が楽しめます。
高級な居住区に、ヨットが停泊しています。
中央に写っているねじれたビルは、ドバイでも奇妙な形で有名なカイヤーンタワー。
*Cayan Tower(Infinity Towerとして知られる)
危なげに立つこの建物は、竣工当時、日本の建築家を驚かせました。
緊急な用事の際には、この水上タクシーを利用します。
ネットや電話ですぐ予約できます。

マリーナ内にはヨガのクラスやジム、映画館もあるり、退屈することはありません。

地図で見ると、入り組んだかたちをしていますが、ドバイ政府経営のウォーターバスで40分で往復できます。

早速乗り込んでみましょう。
ウォーターバスの中はクーラーが効いていて快適です。
この地区に暮らす人が対岸のスーパーまでチョット利用、なんてこともあるようです

ドバイ政府経営の全ての交通機関に利用できるヌールカードです。

この家族連れは、対岸のレストランへ行くんだそうです。

ウォーターバスの中からはこんな景色が楽しめます。

高級な居住区に、ヨットが停泊しています。

中央に写っているねじれたビルは、ドバイでも奇妙な形で有名なカイヤーンタワー。
*Cayan Tower(Infinity Towerとして知られる)
危なげに立つこの建物は、竣工当時、日本の建築家を驚かせました。

緊急な用事の際には、この水上タクシーを利用します。
ネットや電話ですぐ予約できます。

マリーナ内にはヨガのクラスやジム、映画館もあるり、退屈することはありません。

2017年06月15日
エルサレム旧市街で出会った人々(2)
岩のドームの近くの小さな路地に暮らすパレスチナ人のサイマさん(仮名)と知り合いになる機会がありました。
彼女は、ご両親とお姉さん、妹の5人家族で、現在21歳。
エルサレム・ヘブライ大学の学生さんです。

お姉さんのマハさん(仮名)は、アル=クドス(エルサレム)大学を卒業しました。
アル=クドス(エルサレム)大学はエルサレムにあるパレスチナの大学ですが、そこを卒業しても、イスラエル側ではいい職に就けなかったそうです。
それで、サイマさんは、ヨルダン川西岸にあるパレスチナの大学に進むことを考えました。
ヨルダン川西岸はエルサレムから45分で行ける距離です。
しかし、実際には、国境での検問があり、毎日片道2時間の通学になってしまいます。
いろいろ悩んだ挙句、サイマさんは、エルサレムにあるイスラエルの大学で勉強することを決めました。
今後、イスラエルで、イスラエル人と共生して仕事をしていきたいという覚悟の表れでもありました。
アラビア語が母語の彼女にとって、ヘブライ語での勉強は決して易しくはありません。
それでも、頑張るしかないと彼女は語ってくれました。
彼女の専攻は国際政治です。
ある時、大学の授業で、
「エルサレムで生まれ育った人は手を挙げてください」
「両親がここで生まれ育った人は?」
「祖父母がここで生まれ育った人は?」
と質問されました。
講義に出ている学生の中で、最後まで手を挙げていたのは、サイマさん一人だけでした。
その時、講義を受けていたのは、サイマさん以外全員イスラエル人。
それで、祖父母の代からエルサレムに住んでいたのは、パレスチナ人であるサイマさんだけだったのです。
それを質問した教授も、エルサレムにもともと住んでいるのはパレスチナ人であることを改めた確認したかったようです。
ご自宅を訪ねていたとき、サイマさんがダンスのレッスンに出かける時間がきてしまったため、その後はお母さまと長々と話し込んでしまいました。

お母さまの話によると、1967年の第3次中東戦争後イスラエル統治下となった西エルサレムに暮らす人は、ヨルダンのパスポートを保持しているんだそうです。
しかしながら、ヨルダンに行ったところでヨルダン人扱いされることはありません。
また、イスラエルが発行する身分証明書を所持していたとしても、イスラエル人と同等の扱いを受けるわけではありません。
かといって、パレスチナのヨルダン川西岸に暮らせば、さらに自由のないパレスチナのパスポートになります。
ヨルダン川西岸の人達は、許可を取らないとイスラエルに入って来れません。
ガザ地区にいたってはさらに厳しく自由が制限されます。
そうしたことを考えて、母のワルダさんも、サイマさんに、エルサレム・ヘブライ大学への進学を勧めたんだそうです。
エルサレムに暮らすパレスチナ人一人一人に、それぞれ困難な状況と複雑な思いがあります。
それは、イスラエル人にとっても同じことかもしれません。
そんな中で、彼らは、進路を決めるときだけではなく、日常生活の中のいろいろな場面で、「共生」という言葉に向きあい、自らのとるべき道を慎重に選択し続けている。
そんなことをそこかしこで感じた今回のエルサレム訪問でした。
彼女は、ご両親とお姉さん、妹の5人家族で、現在21歳。
エルサレム・ヘブライ大学の学生さんです。

お姉さんのマハさん(仮名)は、アル=クドス(エルサレム)大学を卒業しました。
アル=クドス(エルサレム)大学はエルサレムにあるパレスチナの大学ですが、そこを卒業しても、イスラエル側ではいい職に就けなかったそうです。
それで、サイマさんは、ヨルダン川西岸にあるパレスチナの大学に進むことを考えました。
ヨルダン川西岸はエルサレムから45分で行ける距離です。
しかし、実際には、国境での検問があり、毎日片道2時間の通学になってしまいます。
いろいろ悩んだ挙句、サイマさんは、エルサレムにあるイスラエルの大学で勉強することを決めました。
今後、イスラエルで、イスラエル人と共生して仕事をしていきたいという覚悟の表れでもありました。
アラビア語が母語の彼女にとって、ヘブライ語での勉強は決して易しくはありません。
それでも、頑張るしかないと彼女は語ってくれました。
彼女の専攻は国際政治です。
ある時、大学の授業で、
「エルサレムで生まれ育った人は手を挙げてください」
「両親がここで生まれ育った人は?」
「祖父母がここで生まれ育った人は?」
と質問されました。
講義に出ている学生の中で、最後まで手を挙げていたのは、サイマさん一人だけでした。
その時、講義を受けていたのは、サイマさん以外全員イスラエル人。
それで、祖父母の代からエルサレムに住んでいたのは、パレスチナ人であるサイマさんだけだったのです。
それを質問した教授も、エルサレムにもともと住んでいるのはパレスチナ人であることを改めた確認したかったようです。
ご自宅を訪ねていたとき、サイマさんがダンスのレッスンに出かける時間がきてしまったため、その後はお母さまと長々と話し込んでしまいました。

お母さまの話によると、1967年の第3次中東戦争後イスラエル統治下となった西エルサレムに暮らす人は、ヨルダンのパスポートを保持しているんだそうです。
しかしながら、ヨルダンに行ったところでヨルダン人扱いされることはありません。
また、イスラエルが発行する身分証明書を所持していたとしても、イスラエル人と同等の扱いを受けるわけではありません。
かといって、パレスチナのヨルダン川西岸に暮らせば、さらに自由のないパレスチナのパスポートになります。
ヨルダン川西岸の人達は、許可を取らないとイスラエルに入って来れません。
ガザ地区にいたってはさらに厳しく自由が制限されます。
そうしたことを考えて、母のワルダさんも、サイマさんに、エルサレム・ヘブライ大学への進学を勧めたんだそうです。
エルサレムに暮らすパレスチナ人一人一人に、それぞれ困難な状況と複雑な思いがあります。
それは、イスラエル人にとっても同じことかもしれません。
そんな中で、彼らは、進路を決めるときだけではなく、日常生活の中のいろいろな場面で、「共生」という言葉に向きあい、自らのとるべき道を慎重に選択し続けている。
そんなことをそこかしこで感じた今回のエルサレム訪問でした。