2017年04月30日

エルサレム旧市街で出会った人々(1)

日本のニュースやテレビ番組などでもよく取り上げられるエルサレムですが、そこで暮らす普通の人々の日常が伝えられることはなかなかありません。

現地を訪れた時、そうした人々から直接話がきけるのは、とても貴重な、そしてうれしい経験です。


たとえば、パレスチナ人のAさんは、エルサレム旧市街で観光客向けのレストランを営んでいます。

彼のレストランは岩のドームの近くにあり、レストランの天井のデザインは岩になっています。

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彼には、なんと、お子さんが11人、お孫さんが27人もいるんだそうです。

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「『この土地を売るつもりはないか?』と高額の提示をされたこともあるけれど、自分は売るつもりはない。あまりの金額の大きさに売ってしまった人もいるけどね」

いろいろあるけれど、細々ながらでもここで経営を続け、お孫さんたちとの暮らしを守っていきたいと話されていました。

そして、

「イスラエル料理といってももともとはパレスチナ料理なんだよ。うちのレストランには、パレスチナ家庭料理はおいてないけど、うちまで来てくれたら、妻の手料理をごちそうするよ」

と、温かい言葉をかけて下さいました。

今回は残念ながらスケジュールが合わず、うかがえませんでしたが、次の機会には是非ともごちそうになりたいと思っています。



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2017年04月26日

杉浦千畝氏の「命のビザ」で救われた実在の人物

『杉浦千畝』の名前をご存知でしょうか?

杉浦千畝氏は、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していたのですが、そこでナチス・ドイツから逃れてきた多くの難民に「命のビザ」を発給し、彼らの命を救ったことで有名です。

2015年に唐沢寿明さん主演で映画化された『杉原千畝 スギハラチウネ』をご覧になった方も多いかもしれません。

杉浦千畝氏については、それ以前にも、何度も映像化、舞台化されました。


イスラエルのネタニヤ市郊外で、その「命のビザ」で救われた方にお会いしてきました。
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彼は当時まだ2歳で、ご両親と叔父様といっしょにヨーロッパに住んでいたそうです。

ご本人は2歳でしたので、当然、当時のことをよく覚えているわけではないのですが、お父さまから何度も何度も、どのようにして杉原千畝氏に出会い、どのようにビザを発給してもらったのかを聞かされたそうです。

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当時、日本大使館の前には、連日、日本国のビザを求めるユダヤ人が列をなしていました。

彼のお父様は入口を間違え、台所に通じる勝手口から入ってしまいました。

そこで、食事を準備していた女性に杉原千畝氏の執務室を尋ねていたところ、そこへ杉原氏がトイレから出て来て、「どのようなご用件でしょうか?」とにこやかに話しかけてくれたそうです。

杉原千畝氏は、指にタコができ、腱鞘炎になりそうなほど、毎日昼夜を問わず何百枚ものビザを手書きしていたにもかかわらず、不法侵入者にしか見えないお父様に対しても、紳士的に接してくれたことを忘れることはできないと。


その後、彼らは日本へのトランジットビザを発給してもらうことができ、家族で船に乗って、日本に行くことができました。

日本に着いた後、お父様は、鉄柵が街から消えて行くのを見て、戦争が始まることをすぐさま感じとったそうです。

しかし、彼らは、パスポートを持っていませんでした。

それで、神戸に6カ月滞在し、3回ビザを更新して、最終的に在日本ポーランド大使館でパスポートを作ってもらい、真珠湾攻撃が始まる前に、インドネシア経由でニュージランドにたどり着いたんだとか。


まさに「命のビザ」が支えた奇跡の脱出劇でした。


「杉原千畝が発給した2000人分のビザは、2000人の命を救ったのではなく、この写真に写る私の息子たちと孫たちを含め数万人の命を救ってくださったんですよ」と、
家族の写真を持って語られた彼の言葉が心に残っています。



イスラエルのネタニヤ市には、昨年、日本の斑目氏が寄贈された「プラネタンヤ(プラネタリウム・瞑想センター)」がオープンし、通りに「チウネ・スギウラ・ストリート」という名前が付けられました。

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イスラエルには、ネタニヤ以外にも、杉原千畝氏にまつわる場所が他にもあります。

30年以上以上前に亡くなった一人の日本人が、遠く離れた国と国の架け橋になっているんですね。


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2017年04月23日

エルサレムからベツレヘムへ

パレスチナ自治区にあるベツレヘムは、新約聖書でイエス・キリストの生誕地とされている町です。

三宗教の聖地エルサレムからは約10kmしか離れておらず、世界各地から観光客や巡礼者が訪れます。


エルサレムからベツレヘムへ向かうバスに乗ってみると、ベツレヘムに近づくにつれ、徐々に、山の上に建設された入植地が見えてきます。

入植地は防御しやすい山頂に作られており、壁で守られています。

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パレスチナ人がエルサレムからベツレヘムに行く場合、エルサレムの旧市街の門近くの専用のバス停からベツレヘムチェックポイントまでバスに乗り、ベツレヘム検問所を歩いて通過します。

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検問所で身分証明を提示する女性

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検問所を出た後、パレスチナ西岸までの通路

以前は暑い太陽、寒さ、雨にさらされていましたが、イスラエルが屋根を作ってくれたので、朝夕の長打の列に並ぶのも楽になったそうです。

このバスを利用できるのは、イスラエル国籍を所有するパレスチナ人とイスラエル入国許可を持った西岸在住パレスチナ人だけです。

エルサレムとベツレヘムの実際の距離はたった10kmなのですが、途中に検問所と壁があるために、心理的な距離はもっと遠い気がします。


検問所から出るといきなり9メートルの高い壁が見えます。

ベツレヘムは第二インティアーダでイスラエル人に対する攻撃が激化したところですので、徹底した壁の建設が行われてきました。

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この住宅は3方向を壁で囲まれ、窓からの景色が失われてしまったそうです。

その向こうにはさらに壁があり、知り合いの家に行くのに、その間の通路を通っていかなくてはならず、かなりの大回りを強いられているのだとか。

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ベツレヘムからエルサレムに戻る時には、乗り換えのない直通バスに乗りました。

しかし、このバスの場合も、パレスチナ人だけは検問所で全員一旦降ろされます。

軍人による身分証明書のチェックが終わって、彼らが再度バスに乗り込んでから再出発です。


バスの中で出会ったパレスチナ人によると、これを毎日繰り返すしているんだそうです。

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そのパレスチナ人は、

「パレスチナの土地を奪い返せる日は遠いと思う。自分にはイスラエル人の友人もいるし、共生を否定しているわけではない。」

「戦えば戦うほど壁は高くなる。分裂は顕著になる。迫害は強くなる。時には職を失うことにもなり、生活がしにくくなる。」

「イスラエルで重労働をしているのは、今でもパレスチナ人。農業、土木工事、運搬業、ホテルの清掃係など。イスラエルには安い労働力が必要なので、その中には、入国許可を持たず通過を黙認されているケースもあると聞く。また、イスラエル人が身請け引き受け人をしてくれることもある。」

「共生は浸透しているものの、パレスチナ、イスラエル双方が過激分子を抱えているのは事実である。」

などなど、多少諦めムードで話してくれました。

物価も高く、給料や収入が上がらない中、イスラエルとパレスチナ自治区への二重課税を強いられており、パレスチナ庶民の生活は確実に悪化しているそうです。

そして、多くの若者は、地域の中に閉じ込められて自由に移動できない生活よりも外国へ行って暮らしたい、この閉塞感から抜け出す方法はないかのと、模索しているようです。


今日は、少し重いテーマになってしまいましたね。

でも、これが、パレスチナのひとつの現実です。



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